第八課 数のかぞえかた 私は1976年初冬のころ、日本作家代表団の一員としてはじめて中国を訪問した。その時の旅で同行してくれた数人の優秀な中国側の通訳のひとりに誤さんがいた。誤さんから聞いたエピソードで忘れられない話がある。 ある時彼は日本の医学使節団一行に通訳として同行した。何かの話の折に、人の数を数える必要が生じて、彼はこう数えたという。「ヒトリ、フタリ、ミッタリ、ヨッタリ……。」そこまで言ったとき、一行の二、三人が無遠慮に高笑いしてこう言ったというのである。「やっぱり誤さんは中国人ですなあ。それはヒトリ、フタリ、サンニン、ヨニンと言うんですよ」。 誤さんは傷ついたらしかった。「なぜ、ヒトツ、フタツ、ミッツと言うのに、人数を数える時にはヒトリ、フタリ、と言ってその次にはサンニン、ヨニンとなるのでしょうか。日本語は複雑ですねえ。私はおかげで恥をかきました」。 恥ずかしい思いをしたのは私のほうだった。「誤さん、恥をかいたのは誤さんを笑った先生たちのほうですよ。日本人も昔はミタリ、ヨタリと言ってたんだから」 誤さんの例でもわかるように、日本語には日本人自身があまり気がついていない奇妙な、つまり非合理な用法や語法画多い。数の数えかたの複雑さはその顕著な一例で、私の親しいフランス人のラジオ記者夫妻も、日本文化に関心をもち、パリの日本語学校に通って日本語を学びはじめたものの、数のかぞえかたがあまりに難しいため挫折してしまった。 日本語では、ものを数えるとき、そのものの種類によってそれぞれ特定の接尾語を使う。この接尾語を助数詞というが、たとえばこんな具合である。 家一軒・一戸、椅子一脚、犬・猫一匹、馬・牛一頭、自動車一台、電車一両、紙一枚、菓子一個・一袋・一箱、川一筋、議案一件、薬一服、靴・下駄一足、しずく一滴、詩文一編、短歌一首、俳句一句、書籍一冊、手紙一通、服一着、相撲一番、豆腐一丁、鳥一羽、墓一基、花一輪・一本、ぶどう一房・一粒、船一隻エトセトラ。まだまだいくらでもあります。 ああ、これでは外国人ならずとも難しいよ。そう思う日本人がどんどんふえてきて、今では一個とかヒトツとかで片づようとする傾向も強まっている。誤さんを笑った医学の先生たちだって、全部きちんと使い分けられるかどうか怪しいものだ でも、複雑だから単純化すればいいというものでもない。今列挙した助数詞も、見直してみればそれぞれに味わいがあって、知らないよりは知った方が面白いと感じられる。文化というものの厚みもこういう所に表われると言っていいだろう。 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/7150e008844769eae009ed8d.html