近代(后期)P161-P162 原文: 秩序を求めて (追求秩序) P70-P71部分略 原文: そのうち京都の日本画家である竹内栖鳳は、最も早く積極的に日本絵画のうちに西洋文化を取り入れようとしたい一人であった。彼はコローやターナーなどの作風も学び、前記渡欧中に名前も棲鳳から栖鳳へと改めて、帰国後京都画壇を代表する画家となる《Ⅹ-11》。 译文: 其中,京都的日本画家的竹内栖凤,是最早积极在日本绘画中,想引进西方文化的一个人。他也学习柯罗和特纳等的风格,前文中书,在去欧洲期间名字也从棲凤改成栖凤,回国后成为京都画坛的代表画家《X - 11》。 原文: 京都では34年<1901>に田村宗立(1846~1918)や伊藤快彦(1867~1942)らによって洋画団体関西美術会が創立され、その年11月に第1回展が開かれている。(ここに栖鳳は油絵の作品を発表している。)さらに翌年には京都高等工芸学校が開校し、その年帰国した淺井忠がその教授として京都に赴く。淺井は36年には自宅に聖講院洋画研究所を作り、さら39年<1906>にはそれを関西美術院に発展させ、自ら所長に就任して京都洋画界の発展に大きく寄与した。また日本画では同42年<1909>に京都市立絵画専門学校が開校するが、この学校の開校当初の学生には大正から昭和の前半にかけての京都画壇を背負っていく者たちがいた。 译文: 在京都,34年<1901>由田村宗立(1846~1918)和伊藤快彦(1867 ~ 1942)等人,创立西洋画团体关西美术会,在那年11月举办了第1届展览。(在这里发表栖鳳油画的作品。)并且,在第二年京都高等工艺学校创校,那年回国的浅井忠作为那的教授赴京都。浅井于36年<1903>在自己家建设圣讲院西洋画研究所,于39年<1906>把它发展更新成关西美术院,亲自就任所长,对京都西洋画界的发展做出了很大的贡献。另外,日本画于同42年<1909>京都市立绘画专门学校创校,这个学校的创建之初的学生,是从大正到昭和后半期的京都画坛的肩负者。 原文: 東京では美術学校洋画科から青木繁(1882~1911)や萬鉄五郎(1885~1927)、児島虎次郎(1881~1929)といった人たちが出ている。青木は明治37年<1904>の第9回白馬会展での「海の幸」《Ⅹ-12》、また40年の東京府勧業博覧会に出品した記紀神話から題材をとった「わだつみのいろこの宮」など、当時の洋画界では画期的な作品を生み出し、また萬は明治45年<1912>卒業制作での「裸体美人」《Ⅹ-13》やその後の「日傘の女」など、出身地である東北の風土とフォーヴイスマを結び付けた濃密な造形性の作品を描いた。 译文: 在东京,从美术学校西洋画科出来了青木繁(1882~1911)和万铁五郎(1885~1927 )、儿岛虎次郎 1 / 2 (1881 ~ 1929)这样的人们。青木创作了在明治37年< 1904 >的第9届白马会展的“海之幸”《X - 12》、另外在40年的东京府劝业博览会上展出了从记纪神话取材的“海神的阴宫”等在当时的洋画界是划时代的作品,另外,万铁五郎在明治45年< 1912 >的毕业创作 “裸体美人”《X - 13》和之后的“打旱伞(太阳伞)的女人”等,描绘了其出身地的东北的风土和野兽派相结合的浓厚的造型性的作品,。 原文: この時代、建築ではコンドルや彼の教え子である片山東熊(1855~1917)、辰野金吾(1854~1919)、曾禰達蔵(1853~1937)といった人々が次々と新しい建造物を設計している。主なものでは片山による東京国立博物館表慶館(41年)、赤坂離宮(42年)、辰野の日本銀行当店本館(29年)、曾禰らによる慶応義塾大学図書館(44年)などがある。彼らはそれぞれ独自のスタイルによって明治時代の都市景観を作り出していた。 译文: 这个时代的建筑,康德(“日本近代建筑之父”——英国人乔赛亚•康德(译自日本《产经新闻》)大学工学部的前身)建筑科主任教师)和他的学生的片山东熊、辰野金吾、曾祢(mi)达藏这样的人们不断地设计新的建筑物。主要的东西有片山的东京国立博物馆表慶馆(41年)、赤坂离宫(42年),辰野的日本银行本店本馆(29年)、曾尔等的庆应义塾大学图书馆(44年)等。他们通过各自的方式创造了明治时代的都市景观。 2 / 2 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/7369c6510508763230121278.html