日本古代文学の発生 ●日本古代文学とは? 日本古代とは紀元前千年から鎌倉時代の前までの間と考えられている。また日本文学史の時代区分は古代前期と古代後期に分かれられている。文学史の古代前期とは大和時代と奈良時代の文学を含む平安京遷都以前の文学を指し、古代後期とは政治史における平安時代に相当すると考えるのが一般的である。 その間、日本の古代文学は神話、伝説、説話の誕生から、詩歌とか物語など色々な文学形式の隆盛まで、すごく発展した。前期の優秀な作品は歴史書の<古事記>、<日本書紀>;地誌の<風土記>;和歌集の<万葉集>;漢詩文集の<懐風藻>;仏教説話集<日本霊異記>などがある。後期はもっと多くな素晴らしい作品が出た。その中に漢詩文の<凌雲集>、<経国集>、<文華秀麗集>;和歌の<古今和歌集>;物語の<竹取物語>、<伊勢物語>、またとても有名な<源氏物語>;随筆の<枕草子>;日記の<蜻蛉日記>、<更級日記>などがある。文学領域では多くの偉い作家も出た。 ●日本古代文学の発生とは? 私の考えから、日本古代文学の発生とは日本の文学の最初の誕生から、具体的な形式があり、文字で記した文学作品になる過程だと思う。以下の三つの部分に分けられる。 一、原始社会の祭り 文学の発生は人間の信仰との関係が深いだと思う。 原始社会の人々がまだ自覚的に文学を想像することを知らなかった頃に、文学的な性格を持っていたのは、呪術的祭式における語りごとであった。語り事は祭式の変遷に伴って内容や性格を変え、村落の古老や氏族の語部によって口頭で伝承されていって、それは後世、神話、伝説、説話のような形に分類されまとめられて現代に伝わるものとなった。 縄文時代人々はまだ狩猟、漁撈や植物採集によって生活し、非常に自然に依存した。そして、人間自分は自然災害とか、病気などから自分を守られないから、神の力を信じるしかなかった。 人々は、こっかと、貝殻、翡翠などで作った腕輪や首飾り、耳飾りなどで身を飾り、成人を示す抜歯も行い、門歯に刻みを入れ、また女性や動物をかたどった土偶を作ったりした。人々は自然に対して願いがある同時に、自分の力は小さいので、どうしたら自然は自分の願いを叶えてくれるのか。その問題は当時の人々の思想の中で溢れていたことだ。これらの風習は、魔除け、また病気を治すための呪いといわれている。 弥生時代になると、農耕による収穫量は、自然採集よりもはるかに大きく、貯蔵もできるので、生活は安定し、集落も大規模になった。他方では水稲農耕は、多くの共同作業が必要であり、また自然条件に大きく左右されるので、司祭的な指導者が必要であった。 5世紀の中から、生産用具の改良と普及とともに、乾田や畑の発展が進み、農耕が生活の中心となった。農村の行事としても国の行事としても、重要なものとされた。大和政権の大王の権威も、政治上の権力と最高の司祭者としての宗教的地域に基づいていた。神意を伺うための太占や、審議、正邪を判断する探湯が行われ、また自然神などを祀るやしろも作られるようになった。6世紀の中頃には、神話、伝承などが形を整えたと言われる。 日本文学の原初は、「祭り」のばの詞章「呪詞」から、歌謡、神話へ自然界に対する畏怖と脅威ーー超人間的な力(神)を祭ることによって、共同体の安全、生産の豊饒を願っている間に起こってきたものである。祭りの場で語られる神聖な詞章(呪言や呪詞)は、韻律や繰り返しを持つ律文として発展し、その祭りの場で、語られたものと音楽や舞踊と結びついて極めて渾然としたもの(うたう、おどる、かたる)は、文学の原型となった。しかし、共同体の統合に伴って、小国からやがて統一国家が形成され、「祭り」が更に統合され、その神聖な詞章も言葉表現として自立、洗練化されていった。それが最初様々な歌謡、神話の形で定着され、文学の誕生と思われる。 二、日本国内の環境 生産力の進歩に従って、余剰生産物の蓄積のもとに、地域集団を統率する支配者が各地に現れ、「クニ」も現れた。2世紀の後半に倭では大きな戦乱が起こり、なかなかおきさまらなかったため、3世紀になって諸国が共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てると、ようやく乱は治まった。そして統一的な大和政権がたてられて、人々の生活は穏やかになった。 それに、中央国家の所在地である大和地方は東、南、西三面の山に囲まれていた盆地で、中には多くの川の支流を合流する大和川などが流れ、南に重要な港にも通じ、瀬戸内海へ出るには便利である。北へ行くのは日本海方面で、伊勢を抜け、広い東国へ行くのも便利で適した位置にあった。また、その気候は穏やかで、自然災害は尐なくて、大和政権の基盤を支えた。 その穏やかな環境は文化の発展する有利な条件を提供した。 三、国際の環境 3世紀の末、中国大陸の三国は晋によって統一された。しかし晋はまもなく北方の異民族の圧迫を受けて長江の南に移り、中国はやがて南北時代に入った。そのため、朝鮮半島の漢民族の勢力衰え、北部では高句麗が楽浪郡を滅ぼして、領土を広げ、南部には百済、新羅の国ができた。高句麗の好太王碑によると、大和政権は朝鮮半島の優れた文化や鉄資源を求めて、百済の求めに応じて、軍を送って、新羅と戦い、朝鮮半島の南端の加羅と呼ばれる小さい国に勢力を伸びた。更には、北方の高句麗とも戦った。 しかし、5世紀になると、高句麗、新羅の勢いが強くなったから、大和政権は中国南朝の権威を借りてその地域を強化しようとして、倭の五王が次々と南朝に死者を送った。 こうして、朝鮮半島への出兵や中国との交渉が盛んに連れて、朝鮮半島や中国大陸から多くの渡来人が来往し、日本文化の発展に大きく貢献した。特に四世紀の初め頃、高句麗に滅ぼされた楽浪郡の遺民が多数日本に渡った。彼らは中国の機械技術などを伝え、その子孫は文筆や武芸、産業に貢献した。 5世紀頃には、漢字が日本でも使用されたが、漢字を用いて外交文書や記録などの作成に当たったのも渡来人であった。6世紀、儒教は日本に伝入して、疫学、暦学などの学問も伝わり、ついで仏教が伝えられた。 外国からの先進な文化の伝入、特に文字の伝入は日本文学の一定の形になるには重要な条件なのだ。 発生 国外と国内の両方の有利な環境の中で、日本人は漢字による日本語の文字化ができた。その前口承した神話とか、伝説などは漢字で整えられて記された。漢字表記での困難さを克服するために、古代の日本人は万葉がなを工夫して、またカタカナとひらがらを生み出していった。その口承から記載への過程の中で、歌謡から洗練された和歌も誕生した。 8世紀初めに漢字による記録の発展によって、中央集権化を押し進める国家の事業として、神話、伝説、歌謡などの古代国家による集大成と言える歴史書の<古事記>、<日本書紀>、<風土記>が編集されるようになった。 こうして、日本古代文学は正しい軌道に乗せてきた。 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/03cab38bf121dd36a22d8226.html