摂関政治とは藤原氏の北家が婚姻を通じて天皇家と結びつきながら摂政や関白などになり主導した政治のことです。 一般には天皇が幼少の時、天皇の代行をするのが摂政、天皇が成人の時天皇を補佐するのが関白。ただし、このような区分がはっきりするのは、10世紀以降のはなしです。 まず、摂関政治の足がかりを作ったのは藤原冬嗣でした。冬嗣は810年、嵯峨天皇のあつい信任をえて蔵人頭になり、皇室と姻戚関係を結ぶ、しだいに勢力をのばしました。 成立:857年、冬嗣の子である藤原良房は太政大臣に就任し、9年後には摂政に臣下としてはじめて就任します。良房の政策方法は、他の有力貴族を失脚させ、藤原北家への対抗心を持たせないようにすることと天皇家に自分の娘を嫁がせて子を産ませることで、天皇の外祖父としての権力を手に入れることでした。だから承和の変と応天門の変がありました。 发展:良房なきあと、すぐに養子となっていた藤原基経が摂政に就任します。884年に年配の光考天皇が即位した際には、天皇の代わりに政治を行う関白に就任しました。これまでは、幼い天皇の代わりに摂政を行ってきましたが、ここにきて、遂に成人の天皇の補佐という関白の地位も手に入れたことになります。関白の地位を手に入れるまでには、天皇の発した言葉に基経が怒り狂い、政治の一切を投げ出して、事実上政治が滞ってしまったり、厩の馬を全て町に放してしまうなどして、天皇が詫びるという、阿衡の紛議という事件も起こり、藤原氏の力を世間に知らしめることにもなりました。 鼎盛:摂関政治の最盛期を作り出したのが兼家の5男であった藤原道長です。藤原道長は966年に生まれ、右大臣、左大臣を歴任、20年以上にわたって政界のトップの座にあり続けました。さらに、彰子など4人の娘を次々と天皇の后とし、天皇の身内となりました。一条天皇の中宮となった娘・彰子のいわば「家庭教師」に紫式部を任命、彼女が書いたのが長編小説「源氏物語」でした。 「この世をば我世とぞ思ふ望月の欠たることも無と思へば」 彼が詠んだと伝えられるこの和歌に、その栄光が表されています。 衰退:道長の子藤原頼通は摂関の地位に約50年間就いました。しかし、天皇家に嫁がせた娘からはついに天皇となる男児は生まれなかったのです。後三条天皇は即位したあと、天皇の威信と律令の復興をしようとする政策を次々と打ち出して、次の世代の白河天皇もこれを受け継ぎました。1,086年に白河天皇は上皇となりますが、引退ではなく、院政の始まりを意味していました。上皇は天皇と同等の権力があり、現天皇の実父ということからも、摂政・関白から政治権力が上皇へ移っていきます。こうしたことから、摂政・関白の任命に、上皇を無視できない状態になりました。摂政・関白を引き継いでいた藤原忠実はまだ若く、政治的な経験も乏しいため、院政によって摂関機能の肩代わりをせざるをえなくなり、摂関家によ 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/0879290303d8ce2f006623f4.html