『薮の中』についての感想文 芥川龍之介に書かれた『薮の中』という短篇小説を読んでから、とても感慨が深い。 最初この小説を読み終わると、一体あの男を殺したのは誰か、本当の真実はどういうことか、いろいろな疑問があって、ずっと考えていたが、なかなか結論が出せなかった。それぞれの証言から見れば、確かな証拠があったので、筋道が立つ。でも、これらの証言を集めば、矛盾だらけで、真相が不分明になる。 もっと考えて、この小説が推理小説ではなく、事件の真相が作者の目的ではないということに気づいた。それなら、作者が言いたいことは何だか。そのため、もう一度小説のプロットを思い出した。多襄丸と夫婦三人が当事者なので、彼らの証言が重要だ。だが、多襄丸の証言によって、女を奪うため、男を殺した彼には何となく人殺しに対する憎しみがなく、英雄的な気慨がある。同様に、夫婦の証言から見ると、彼らの不幸に心から同情がした。 何故か彼らは我々の同情を買うのかというと、生きている人も死んだ人も嘘つきだからだ。プラス的なイメージを確立するため、自分に不利がある事実を隠して、自分の罪を庇ったのだ。 この作品を通じて、人性の暗黒面をあばき出している。だから、作者が言いたいことは人間そのものの虚偽とエゴイズムだろう。 男は金銭の誘惑に負け、多襄丸のわなにかかったこそ、事故が相次いで起きたのだ。自分の妻を守らなかった彼は簡単に多襄丸を許したのに、暴行された妻をとがめて、どうして自殺しないのかと言った。私はひどく憤慨した。 でも、このような情況は中国でもあるようだ。いつも美人は災禍を引き起こす人と思われる。春秋時代の越の伝説上の美女西施は、越王勾践が呉に敗れて後、呉王夫差の許に献ぜられた。夫差は西施の色に溺れて国を傾けるに至った。国の滅亡を招いた張本人は本当に西施なのか。それより、むしろ夫差は国を治めるのを怠り、自分の欲望が抑えられなく、理性を失ったと言った方がいい。これは男性の責任を女性に転稼する女性差別だろう。 先週、先生はこの小説によって改作された『羅生門』という映画を見てくれた。原作と比べ、加えた部分が特に好きだ。最後、木樵りの話によると、三人が皆嘘をついたことをさらに証明した。それに、多襄丸と男が戦っているシーンを見て、おかしいと思ったと同時に、二人の臆病と無能が分かった。 『薮の中』は短篇小説だが、人に深く考えさせることがたくさんある。その上、毎度読む時、前回と違ったことを考える。これは多分名作の魅力があるところだろう。 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/4067b9a728ea81c759f57850.html