皆さん、岳麓書院へようこそしらしゃいませ。今、私たちが立っているところは赫曦台です。「赫曦」というのは赤い太陽のことです。当時、有名なてつがくしゃ哲学者である張栻の招きに応じて、朱熹は遠く福建省から長沙の岳麓書院に講義をしにお越しいただきました。長沙で2カ月滞在して、朝はよく張栻と一緒に岳麓山の頂上に登って日の出を見ていたんです。朝日が東からのぼって、その日差しがギラギラ光っていて、山、川や町などすべてのものは朝日を浴びています。このシーンを見るたびに、朱熹は興奮してたまらなくて、「赫曦!赫曦!」と手を叩いて叫んでおりました。この故に、彼らが日の出を見るところを「赫曦」と名付けました。その後、张栻はそこに舞台を作り上げ、記念の意を表すために「赫曦台」と命名されました。 皆さんは赫曦台の内の両側に「寿」と「福」という二つの文字に気づいていますか。この「寿」と「福」について伝説があります。唐朝において、毎年の郷試のあと、結果が出てきた翌日に、州県の長官は及第した挙人のために宴会を催す習慣があります。宴会に「詩経•小雅•鹿鸣」を歌うので、この宴会を鹿鳴会と呼ばれるようなりました。この伝統は明、清朝まで続きました。鹿鳴会に帰るというのは鹿鳴会に参加した挙人が六十年以後またその宴会に出席するということです。鹿鳴会に帰られる人は大変少ないです。岳麓書院の歴史において、院長として鹿鳴会に帰るのは羅典が初めてです。この伝説は羅典が鹿鳴会に帰った日に起こりました。 この日、書院は格別賑やかで、官位が高く高貴な方々や名門名族はみんなお祝いに来ていたんですから。それに、彼らは詩歌を詠じて作って、自分の才能を見せびらかしました。みんなが楽しんでいるとき、乞食みたいな道士は入ってきた。門番が引き止めようにも引き止められませんでした。その道士はホールに来て、羅典にお辞儀をして、「施主の皆さん、僕も楽しませでいただきたいんです」と言いました。みんなは彼の格好を見て、馬鹿にしていました。彼をからかうために、「字をいくつか書いてみろう。」と彼に言いました。その道士はこのことを聞いて、すぐホール前の箒を掴んで、少し泥をつけて、赫曦台の白い壁を見届けて、スースーと二筆で1丈あまりの「寿」を書きました。みんなはびっくりして、しばらく声が出せませんでした。気を取り戻すと、その道士はもう姿が消えました。羅典は再びその字を見て、すっかり力を籠めて、流暢でした。きっと普通の人が書いたのではないと分かりました。羅典は後悔してたまらなくて、人々に頼んでその道士を探しているが、やはり見つかりませんでした。自分の過ちを補あやまおぎなほうきつかもんばんしいかえいかくべつこうききょじんえんかいもよおなづあひかうために、また対称のために、羅典は自らその向こうの壁に「福」という字を書きました。ひとふで一筆で書き終わりましたが、この福の字の筆力は「寿」に及びません。 この「寿」をよく見て、何に似ていると思っていますか。龍と蛇が纏るのに似てまつわいるのではないですか。それは「隠した龍」という意味ではないですか。それに、あの「福」は虎が山を下りるのに似ているんではないですか。それは「伏せた虎」という意味です。二つの字を合わせて、「人材が隠れる」ということになります。つまり、それは、岳麓書院は人材を隠すところであることを暗示しています。 あんじふ 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/8af8e1b05022aaea998f0fb1.html