だい第15課 奇跡の戦後復興からバブル崩壊へ しゅっぱつかきせきせんごふっこうほうかいせんご戦後の日本は焼け野原から出こくふよんぶんいちにほんやのはら発したと言っても過言ではない。大戦直後の日本は、い、生産はほぼ麻痺状態だった。仕事のないけつぼうぶっかのぼじょうしょうせいさんまひじょうたいしごといかごんたいせんちょくごにほんその国富の四分の一をふくいんぐんじんまちあふうしな失復員軍人が町に溢れ、生活物資は欠乏し、物価はうなぎ登りに上べいぐんあいてしょうふまちかどたまいたにんこくみんせいかつぶっし昇していやそうた。米軍相手の娼婦が街角に立ち、米を食べられる人は国民のごく尐ついもかゆいたせいかつふつうひとびとくしょうすう数で、野草を摘んで芋粥に入れて食べるような生活が、普通の人々の暮らしだったのである。 そんな日本が復興のきっかけを掴んだのは、朝ぞうだいにほんふっこうつかちょうせんせんそう鮮戦争だろう。米軍への軍需がせつびとうしいっきぞうだいべいぐんぐんじゅ増大し、経済は活性化し、電ちょうせんとくじゅけいざいかっせいかでんりょくてっこうぞうせん力・鉄鋼・造船などの設備投資が一気に増大ねんせんぜんすいじゅんした。この朝鮮特需を通して日本経済は1955年には戦前の水ぬにほんけいざいせんごふっこうごとおにほんけいざい準にまで回復いごにほんかいふくしたのである。この特需を抜きにして日本経済の戦後復興は語れない。以後、日本はじゅうかがくこうぎょうとくじゅ重化学工業を中ちゅうしん心にして高度成長を遂げるわけだが、それを加速したのは」であり、とくきぎょうこうどせいちょうとかそくいけだないかく池田内閣の「こくみんしょとくばいぞうけいかく国民所得倍増計画せつびとうしかくだい企業はほんかくてき本格的にじゅうかがくこうぎょう重化学工業への設備投資を拡大した。特に、60年以降の家電産業とはってんめざかいがいゆしゅつつうねんりつねんいこうかでんさんぎょうじどうしゃさんぎょう自動車産業の発展には目覚ましいものがあり、それらの海外輸出を通じて、年率だいけいざいせいちょう10%台の経済成長を続け、68年にはアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となねんかんにほんこくみんそうせいさんじつばいのつづねんつせかいだいにいけいざいたいこくったのである。1960年から10年間で、日本の国民総生産(GNP)は実に2.6倍に伸びている。 この高度成長の外かさしたぐんじひこうどせいちょうがいてきじょうけんねん的条件とすれば、日米安保条約というアメリカの核のおさしきんざいせいとうゆうしにちべいあんぽじょうやくかく傘の下で軍事費の支出が抑えられ、その資金を財政投融資としてふむかのうこていそうばせいえんししゅつさんぎょうきばんせいび産業基盤整備に振り向けることが可能であったこと、固定相場制(一ドル=360円)が輸出主導型経済成長を可能にしていたこと、安価で安定的な資源や石油のかのうあないいんせいふしゅどうせっきょくてきかのうあんかあんていてきしげんせきゆゆしゅつしゅどうがたけいざいせいちょうゆにゅう輸入が可能だったことなどが挙げられるだろう。内因とすれば、政府主導の積極的 1 な民間企業育成政策や、道路、港湾、空港、通信、工業立地としてのかんたくじぎょうみんかんきぎょういくせいせいさくどうろこうわんくうこうつうしんこうぎょうりっち干拓事業などの社会資本整備への財政の重点的投資が挙げられる。また、よにほんきぎょうろうしいったいきぎょうはってんめざしゃかいしほんせいびざいせいじゅうてんてきとうしあにほんがたけいえい日本型経営と呼ばれているが、日本企業が労使一体で企業の発展を目指したことじゅうようも重 要な要因であったに違いない。 よういんまちが 1965年の日韓条約締結以降は、日本企業のアジア進にっぽんせいふういこくさんぎょうきばんととのねんにっかんじょうやくていけついこうにほんきぎょうしんしゅつ出が目立った時期だっみんかんきぎょうめだじきた。日本政府がODAで受け入れ国の産業基盤を整え、続いて民間企業がしんしゅつつづ進出して現地生産し、その低コストの製品を海外輸出するというパターンがすすにほんきぎょうしんしゅつげんちせいさんていせいひんかいがいゆしゅつかんみんいったい官民一体で進められた。このODAや日本企業の進工業発きよめんむしうい出が、アジア諸国のひとしょこくこうぎょうはってん展に寄与した面を無視するべきではないが、受け入れ国の人たちから「エコノミッひはんろこつえんじょじじつとうなんこくク・アニマル」と批判されるほど、露骨なひもつき援助であったのも事実で、東南アジア諸国では日本商品ボイコット運動が起こったぐらいである。 しかし、この日本の高度成長も、1973年から74年にかけての石油危機によって終むかせきゆききしげんしょうこくにほんこっかそんぼうにほんこうどせいちょうねんねんせきゆききしゅうえんにほんしょうひんうんどうお焉を迎えることになる。石油危機は、資源小国日本にとっては国家の存亡がかかっただいもんだい大問題だった。日本は国と企業が一丸となって、省エネルギー型産業構造てんかんすすけっかにほんせいぞうぎょうにほんくにきぎょういちがんしょうがたさんぎょうこうぞうへの転換を進めた。その結果、日本の製(数値制御)工作機械などの導しょうりょくかすうちせいぎょこうさくきかいどうにゅう造業は世界に先駆けてロボット、NCてっていしょうせかいさきが入に踏み切り、徹底したせいこうふき省エネルギー・争力を高たか省力化によって、この危機を乗り切ることに成功した。そして国せかいしじょうせっけんねんだいききのきこくさいきょうそうりょく際競めた日本製品は世界市場を席巻し、80年代の安ゆうえつかんよにほんせいひんあんていせいちょう定成長に入った。日本人はおごへいけひさにほんじん「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という優越感に酔いしれた。しかし、「驕る平家は久からず」とはよく言ったもので、日本はバブル景気に浮かれ、1990年のバブル崩壊後は「失われた10年」と呼ばれる深刻な不況に突 ねんよしんこくふきょうとつにゅういにほんけいきうねんほうかいごうしな入することになる。 2 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/71f3bfd7195f312b3169a5f5.html