西洋の風 琺瑯彩嬰戯双連蓋瓶 高さ22センチ。18世紀、最後の王朝清の第6代皇帝乾隆帝の時代に作られた陶磁器です。陶磁器にはそれまでの時代には見られない色鮮やかでくっきりとした絵が見られます。「琺瑯彩」と呼ばれる技法で描かれたものです。「琺瑯彩」とはもともと金属の上に絵を描く技法で、ヨーロッパで開発されました。この技法はキリスト教の布教のために海を渡ってきた宣教師たちによって中国にもたらされ、陶磁器の絵付けに応用されました。「琺瑯彩」は白い磁器の上にガラス質の顔料で絵を描き、低温で焼き上げて作られます。「琺瑯彩」に用いられる顔料の数は17を数えます。「琺瑯彩」を利用して、陶磁器に色鮮やかな絵を描くことが可能になったんです。 粉彩倣果品蟹盤 直径22センチ。この陶磁器にも「琺瑯彩」の技法が用いられています。皿に盛られた蟹や果物。この陶磁器は乾隆帝に献上されました。弾けた石榴(ザクロ)の実、皮を剥きかけた栗、そして落花生。宣教師によってヨーロッパから伝えられた絵付けの技法で、本物そっくりに仕上げられています。 中国へのキリスト教の布教は17世紀、明の末期から清の時代にかけてほんかかしました。当時の宣教師の多くは優れた技術者であり、芸術家でもありました。 北京に残る宣武門天主堂 清の初め、中国で最初に立てられた協会です。西洋の技術や芸術に興味を示した皇帝たちは宣教師に布教を許しました。宣教師はこの協会を拠点に布教活動を行いました。 北京にある宣教師の墓地 ここには中国に渡ってきた宣教師たちが眠っています。明の末期、中国に世界地図や幾何学を紹介したマテオリッチ。清の初め、西洋の天文学によって中国の暦(こよみ)の改革に力を尽くしたアダムシャールなど。中国に骨を埋めた宣教師も少なくありません。 皇帝の居城紫禁城 宣教師たちは皇帝の歓心を買うため、紫禁城に置かれた造弁処と言う宮廷工房で進んで働きました。目新しい西洋の技術に心を引かれた第4代皇帝康熙帝は造弁処にガラス細工や時計などを作る工房を置き、宣教師を迎え入れました。中でも康熙帝が強い関心を示したのが「琺瑯作」と言う工房で作られる作品でした。 画琺瑯鳳紋盤 直径22センチ。「琺瑯作」の工房で作られた銅の器です。いわゆる「七宝」です。それまで、金属の上に絵を描くには銅の板で仕切りを作ったり、土台にを窪み作ったりしなければなりませんでした。顔料が交じり合うのを防ぐためです。宣教師がもたらしたヨーロッパの画琺瑯と言う技法は金属の上に自由に絵を描くことを可能にしました。この新しい色の表現は皇帝の心を捕らえました。皿の裏には康熙帝のために作られたことを示す文字が見えます。しかし康熙帝の時代、琺瑯の顔料を中国で作ることはできず、ヨーロッパからの輸入に頼っていました。 画琺瑯龍耳瓶 第5代皇帝雍正帝の時代に画琺瑯で付けされた銅の器です。雍正帝の時代になると、中国でも琺瑯の顔料を作ることができるようになり、ますます盛んに琺瑯の作品が作られました。銅の下地に画琺瑯の絵付けが施され、更に金鍍金(めっき)された龍があしらわれています。しかし皇帝はヨーロッパの技術を模倣するだけでは満足しませんでした。皇帝はこの華やかな画琺瑯の色彩を中国伝統の陶磁器に移すことを命じたのです。 琺瑯彩松竹梅紋瓶 画琺瑯の技法を擁して陶磁器に彩色したものを琺瑯彩と呼びます。琺瑯の顔料を陶磁器の上に絵付けするには銅の上に絵付けするより更に高度の技術を要します。景徳鎮にある官営の陶磁器工場で作られた白磁が紫禁城に運ばれ、造弁処の琺瑯作で絵付けされました。それまでの陶磁器にはないくっきりとした色鮮やかな紋様が目を引きます。こうした琺瑯彩の絵の多くは宣教師たちによって描かれました。 琺瑯彩花蝶茶壺 雍正帝の時代に作られた琺瑯彩のティーポットです。西洋絵画を思わせる蝶の絵が描かれています。蝶の周りの花模様にも西洋絵画の影響が見られます。中国伝統の陶磁器に、新しい美の世界が加わりました。 紫禁城の造弁処で働く宣教師の中に、15年の長きにわたり、三代の皇帝に仕えた一人の宣教師がいました。イタリア人宣教師カスティリオーネ、中国名は郎世寧です。郎世寧は1688年イタリアのミラノ乳生まれました。19歳のときジェノバの修道院に入って、絵を学び、教会の壁画などを描きました。1715年、イエジェツ会の宣教師として27歳で中国に渡り、第4代皇帝康熙帝に仕え、以後宮廷画家として活躍しました。 嵩献英芝図 郎世寧が宮廷に仕えてから9年後、36歳の時の作品です。絵は中国の山水画の伝統的な構造を元に描かれています。谷間を流れる渓流、遠くにかすご山、切り立った岩に泊まる鷹。郎世寧は皇帝から中国の絵画を学ぶように命じられ、山水画の技法を研究しました。絵の具には中国の顔料が用いられています。写実的に描かれた松の幹、この描き方は西洋絵画の技法によるものです。中国で好んで描かれる不老長寿の茸霊芝。霊芝や岩には濃い影が付けられています。陰影を大胆に強調する技法は郎世寧がイタリアで絵を学んだころに流行していたバロック絵画の特徴です。鷹も羽の一枚一枚まで写実的に描かれています。郎世寧は山水画の伝統的な構図に西洋絵画の技法を加え、独自の世界を作り上げました。しかしやがて宣教師たちにとって大きな苦難の時代が訪れます。 弘暦是一是二図 郎世寧が描いた第6代皇帝乾隆帝です。乾隆帝はヨーロッパ列強のアジアへの浸湿が激しくなったこの時代、キリスト教の布教を一切禁じました。しかし乾隆帝は西洋の技術や芸術のは高い関心を示し、宣教師たちをそばに置き続けました。乾隆帝即位の時、48歳になっていた郎世寧は布教を禁じられながらも、生涯乾隆帝に仕えることになります。 乾隆帝凱閲鎧甲騎馬像 郎世寧が描いた閲兵式に望む乾隆帝の肖像画です。乾隆帝が特に好んで描かせたのが自らの姿を映した絵でした。宣教師がもたらした西洋の肖像画の美しさと精確さは皇帝を驚かせました。しかし乾隆帝は肖像画を描かせるあたり、顔に影を付くてはならないと言う注文を出しました。顔の影は不吉だと言うのです。乾隆帝は住まいのすぐ近くに郎世寧のアトリエを置き、政務の合間をぬってはしばしば訪れました。 宋の時代の画家李公麟が描いた馬の描き 臨韋偃牧放図 乾隆帝はめんさくと言われる李公麟の馬の絵を郎世寧に見せ、これを学んで描くよう命じました。馬は中国で好まれてきた画題です。 八駿図 郎世寧が60歳のときに描いた馬の絵です。 本文来源:https://www.wddqw.com/doc/d7d53b28bd64783e09122b7d.html